ヒストリー

家族、友人、仲間、同僚。人生に欠かせない、人と人のコミュニケーション


大切だけれど、むずかしい。
憎らしいけど、愛おしい。
大好きなのに、憎まれ口

自己嫌悪したことがないなんて嘘。
お互い素直になれたらいいけど、プライドや執着、過去の自分が邪魔をする。
  
でも、この人生は他の誰にも歩けない、自分自身の人生。

自分を大切に、もっと自分らしく!生きていきましょう。

目次

自立を求めて奮闘する母との交換日記

母が再び「先生」と呼ばれるようになるまで

私の母は元小学校の教師です。結婚して、父が創業したのを機に教師を辞め、父を手伝うようになりました。
好奇心旺盛の母は、間取り図や出来上がった家を見て、「主婦の視点がない」と感じていました。
   
ある時それを父に伝えると「ど素人はだまっとけ」と父が母に手をあげます。悔しかった母は「だったらプロになってやる」と、猛勉強しました。現場では、職人さんたちが師匠。現場が終われば、建築・インテリア関係のスクールを3つかけもち。家事・現場・勉強に明け暮れました。 やがて、主婦目線の母の提案がお客様に喜ばれることが増え、父に「これからお前のこと先生って呼ぶ」と言わせるまでになりました。転職だった教師を諦めた母が、再び「先生」と呼ばれるようになった瞬間でした。

忙しすぎる両親。母と子どもたちの交換日記

                 本 大丈夫だよお母さん p115 交換日記より引用

典型的な昭和のワンマン夫と結婚した母は、自立心と好奇心でめきめき腕を上げ、やがて自身の会社も設立します。

忙しすぎる両親を見かねて、祖母が私たちの世話をしてくれました。職住一体ではなかったため、親子の会話はほとんどありませんでしたが、そんな中でも母は工夫していました。私たち子どもとの交換日記です。(この時のやり取りの一部が『大丈夫だよ、お母さん』に掲載されています)

また、この時期特に弟や妹がかわいくてなりませんでした。兄弟3人だけで過ごす時間が長く絵を描いてあげたり、絵本を読んであげたり、家に2人を残して遊びに行けず兄弟付きで友達の家に遊びに行っていました。小さい子の世話が好きな私。「幼稚園の先生になりたい」と思ったのも大好きな兄弟がいてくれたからだと思います。

環境がコミュニケーションに影響を与える!?

住まい遍歴が教えてくれた「環境の大切さ」

家業が工務店だったこともあり、住まい遍歴は数知れず。私が生まれた頃は、母の実家に間借りしていました。次は建売住宅。そして事務所付きの新築住宅。
中学生の頃は3億円の豪邸に暮らしたこともあります。広すぎる家で家族の会話は乏しく、寂しい時期でした。母が会社を設立するのに前後して、父は荒れ、家を空ける日も増えていきました。

1999年。経営が傾き、父が他界。母に残ったのは、14億円の借金。大人になった私たち妹弟と母は「豪邸よりも、小さい家の方が楽しかったね」と話しました。幼少期の住まいには、皆で肩を寄せ合う温かい団らんの場があったと思い出したのです。

「大きくて豪華な家でも寂しい家がある。古くて小さくてもあたたかい家がある。」
環境が、コミュニケーションに影響を与える!と身をもって知った時です。ドン底でしたが、希望の光を見つけたのです。
その理想は、やがて母の「住育の家」に結実します。

イタリアのマンマから教わった「暮らしを楽しむ」

幼い頃から母に約束した「大きくなったら助けてあげる」を実行すべく小さな頃から家事手伝いは、もちろん。母について現場片付け、そして当たり前のようにインテリアの美術短大へ。夜間は他にも複数のスクールで、色彩・インテリア、住まいづくりの基礎を学びました。

学校からのヨーロッパ14カ国の視察研修旅行の中でイタリアのデザイナーからのご招待で暮らしを拝見。イタリア人の「暮らしを楽しむ」ライフスタイルに感銘を受け、イタリアに留学したいと熱望。卒業制作で受賞したら行かせてあげると約束をしその後、イタリアでマルテガーニ家にホームスティ。

毎日が目からウロコでした。カップ&ソーサーのセットのカップしか使わない私を見て「TOMOMIは面白いことをする」と笑い転げたマンマ。彼女は自分や周囲の人々を大事にしながら、日々を丁寧に、暮らしを楽しむことを教えてくれました。

暮らしを楽しむ──それは、人生を自分らしく生きること。仕事だけでなく、私の人生の軸となりました。

目次